2014年7月14日月曜日
検証抜きの読書は独りよがりの累積
∧∧
(‥ )ワールドカップ
\‐ ドイツが延長戦で
ついに1点を先取
アルゼンチンを
下したそうです
(‥ )優勝はドイツか
ブラジルから7点を
奪ってぼこる実力は
本物だってことか
まあ、色々あれどスポーツとは確かにそういうものだ。実力を測る仕組みがあり、それにそって勝負をしている。神の手とかそういうものがあれども、まあ、そういうことだ。検証とテストと測定がそこにある。
∧∧
( ‥)科学もそうだよね
( ‥)検証とテストと
‐□ 測定だ
それを通過しないと
どうにもならん
だが、こういうものを必要としないどころか、むしろ積極的に排除する分野や学問や行為というものが存在する。
∧∧
(‥ )読書もそのひとつだと
\‐
(‥ )自由に感想して良い
それ自体は問題では
ないんだけどね
しかし、そういう基準無き世界に足を踏み入れて、そこでの経験を検証抜きに累積させると決めた時、自分は今、非常に危険なことをしている。そういう自覚は持つべきだったのだろう。
∧∧
(‥ )歴史的な科学の本も
\‐ そういう基準無き
曲解にさらされて
きましたからね
(‥ )ダーウィンが言う
適者生存とは
生存したものが適者なのだ
そのような循環論法であり
それゆえに誤りである
70年代の哲学者たちが
そう自慢げに
言い立てているのを
読んだ時には
大笑いしたものだけどな
*現在の哲学科の人の前でこの話題をして、こんな時代もあったんすねえ、と笑ったら、うん、昔はそういう人たちがいてね、と少し悲し気な顔をされたことを思い出す。
**ついでにいうとこの人はそれは欺瞞だ、という立場の哲学者であるから渋い顔をしてみせたのだともいえる。実際、以上のような”適者生存は循環論法であるから自然淘汰は間違いだ”、と信仰している哲学者やら知識人やら文化人や読書家は今でもごろごろいる。
***実は適者生存という言葉は受け取り方次第では循環論法的に聞こえる、というのは正しい。だが、生物の変異AとBがある、条件XにおいてAはBよりも子孫を残す確率が高い、という現象を否定できるものではない。適者生存という表現が悪いからといって、その表現が示そうとした事実が変るわけではないのだ。用語を循環論法的に定義することで用語を否定し、その延長で現実を否定し、それで理論を批判しているつもりになっているのだとしたら、それはかなり重症だろう。
****なお、適者生存という言葉と表現はダーウィンが考案したものではない。彼自身はこの表現が循環論法的に聞こえるので、好まなかったようである。
∧∧
( ‥)テストと検証無き
そのような理解と読書は
独りよがりの累積でしかない
( ‥)だがそれを学問である
‐□ それこそが英知であると
言い立てるやからは
昔から絶えた事が無い
そして人は学校を卒業して
テストから
逃げおおせると
容易にこの道にはまる
無様なことよ
そして読書とは
哀れなものだなあ
考えてみれば、読書すれば頭が良くなるとか、そういう抽象的で大雑把なトンデモが一人歩きしている時点で、私たちは気がつくべきだったのだ。
テストが存在しない以上、引きこもって本を読んでいる以上、読書とは欺瞞でしかない、この明白な事実に気づくべきだったのだ。確かに、検証無き読書はスポーツに劣る。
これはhilihiliのhilihili: 本を読んで分かって理解して、それが一体何だというのだ?の続き