2015年6月16日火曜日
すべてはあるがままに
小学生の頃の記憶というと、同級生たちがミカンには雄と雌がある、と言い出したことで。
∧∧
( ‥)なにそれ?
(‥ )へたの反対側が
凸か凹かで
決めていたみたい
だったよ
ミカンごとに雄と雌がある。
当時既に受精の話は理科で習っているか本で読んでいたので、不思議に思って尋ねたものだ。
ミカンの花って雄しべと雌しべの両方があるんだよね? 要するにミカンって”おとこあんな”じゃねえの? 雄と雌が決まっているってどういうこと?
そう聞くと、相手はぽかーんとした顔をして、こっちが雄でこっちが雌だ、そう繰り返すのであった。
∧∧
(‥ )単にこれが雄だと聞いた
\‐ これが雌だと聞いた
その識別方法を話題にして
親睦を深めていた
そういうことだろうね
(‥ )ミカンの雌雄って
具体的になんだ?
ということには
興味ない訳だよ
みんなそんなことは
どうでも良いのだな
大人になった今でも意味は分からないが、現象論としては把握できる。要するに正しいか正しくないかはどうでも良い、消費者には彼らが望む物を投げ与えればそれで良い、そういうことである。
∧∧
( ‥)手術や薬がいやな人に
切らずに直りますって
嘘知識を投げ与えるように?
(‥ )まあ相手の願いを
かなえてやっている
わけだからな
その点に関しては
正当ですねえ
これを愚かと笑う人もいようが、人は子供の頃、将来自分がどのような知識を選択するのか? それをすでに決断しているということでもある。
自分が選択肢を選ぶ時、選択肢をどのように選ぶのか? 選択肢の選択、それ自体が選択であった。これはいわば戦略を決めるようなもので、一度戦略が決まると、選ばれる戦術はすべてその戦略の枠内となる。
つまり、愚かしい本を読んで死ぬのだとしたら、それはすでに決まっていた運命であり、自己責任だ。他の誰も責任を取れないし、救済することもできない。選んだのは今のあなたではなく、過去の自分だ。過去の自分を殺すことはできない。
私たちの運命はあの日、あの時、今と未来をどのように決定したであろうか?
では、すべてはあるがままに