2015年1月9日金曜日
プラトンの教室に樽親父が乱入したことを忘れてはならぬ
先日、電車に乗っていると中学生と思わしき二人の男の子がジャージ姿で話し合っていた。青と灰色の、スマートなジャージ。
数学と物理は分かりやすいけど、生物がどうも苦手で..
なんで?
数学と物理は公式を覚えれば解けるけど、生物はなんか覚えることがいっぱいあるじゃん
ああ、そうだね。
肺とか腎臓とか分からないし
ああ、あれはね、体に不要なものを捨てる器官らしいよ
ここで二人は電車を降りたのでこれ以上は分からない。
肺は酸素も取り込むけど
∧∧ 二酸化炭素を出すしね
( ‥)
‐( ‥)あの理解はそんな
おかしなものでは
ないだろうな
確かに分からないでもない。分子生物学に至ってはあらゆる化合物、あらゆる酵素、あらゆる蛋白質、あらゆる前駆物質、あらゆる細胞生成物がぞろぞろと軍団を作り、それぞれの固有名詞、それぞれを分類したファミリーネームが隊伍を成して整列し、それとは別の機能面に注目した名称やグループ名が乱闘しているめちゃくちゃな有り様だ。
しかも、その全容はまだ分かっておらず、謎は増え、名詞もものすごい勢いで増加するばかりである。
∧∧
(‥ )それに比べたら
\‐ すでに完成された
公式と方程式を解けば良い
数学や物理は楽ってことですか
(‥ )実際にはそんなもの
数学や物理学がかつて
置いていった製品で
最前線にいけば
通用しないのだがな
数学や物理は、定義と公式を覚えれば良いような、お上品なおこちゃま学問などではないだろう。
とはいえ、確かに、数学や物理学では、定義がかなり楽なのは確かだろう。
∧∧
( ‥)反対に
生物学や進化学はおかしい!
なぜ厳密に定義できないのか?
この定義からすれば
こうではないか??
そう息巻く門外漢の研究者も
いますよね
(‥ )それは馬鹿むき出しだがな
理由はそれこそ単純なのである。
あらゆる時空の陽子や電子はすべて同じ性質を持つと考える。これは仮定でしかないのだが、これを覆すような話はちょっと聞いたことがない。
電子と陽子から出来た水素はあらゆる時空で同じ性質を持つとする。これは実際には同位体があるのだから正しいとは言えないが、元素は同位体を含む。そのように定義を拡張すれば問題ない。
元素から出来た二酸化炭素も同様。
だがしかし、酵素となったらこの前提が崩れてしまう。
なんでかというに、酵素はアミノ酸から、アミノ酸は酸素や水素や窒素から出来ている。
これだけを考えれば一律に定義できそうだが、実のところ酵素はそれを組み立てるアミノ酸が少し違っても機能を果たすことができる。というか変ってしまったので基本は同じだが、働ける温度やpHの値が変ったりする。もちろん、機能自体が下がったり、あるいは上がったり、あるいは完全に失ってしまう場合もある。
∧∧
( ‥)酵素Aと言ってもそれは全部が
同じ性質であることを示さない
(‥ )だって違うわけだからね
当然よな
つまり、定義できない。あるいは便宜的に定義しても一律に杓子定規に論ずることが出来るわけではない。
そして酵素を司るのが遺伝子である以上、遺伝子もまた以上と同じことが言える。つまり、”同じ遺伝子”でもちょっとちょっと違う。当然、それの離合集散である生物も人間も、例えそれが”同種”であったとしても個体はそれぞれ違う。
∧∧
(‥ )つまり物理学で扱う
\‐ 対象と違って
生物は原理上一律に
定義できない
(‥ )そもそも組成が違う
わけだからね
同じじゃないのだから
同じにはできんよな
それを考えれば生物学は不明瞭でいい加減で定義できないからおかしいと言っている連中は、自分の頭の出来の悪さを声を大にして宣伝しているのと同じである。同じ酵素といっても、組成が違っているのだから一律に語れるわけがない。それは酵素が持つアミノ酸の配列を読み、あるいは遺伝子の塩基配列を読めば一目瞭然ではないか。
それこそ、人間も生物も例えそれが同種の個体同士であっても、それらはイコールで結べる存在ではない。イコールであることは、それこそ論理的にありえない。
論理と定義を振りかざしながら、異なる組成のものを一律に定義して論理的に扱おうというのである。頭がいかれているか、認識がぶっ壊れているか、いずれかだろう。
∧∧
(‥ )でも人間の中には
\‐ 定義と論理で生物や人間を
一律に語ってしまう人がいる
(‥ )もしかしたら
頭うんぬん以前に
動機自体は冒頭の中学生と
同じかもしれないな
単にそれは、楽だからなのかもしれぬ。
受験勉強の戦略というのならともかく、大人でこれをするのって、それはつまり思考の手抜きじゃね?
これまでにも述べた、人間が種として持つ生存戦略は弱者保護です。この言い様がトンチンカンなのはこれが原因だ。
人間は離合集散する遺伝子のネットワークに与えられた名称に過ぎず、一律な性質を持っているわけでもない。全体に指令を発する司令部があるわけでもない。人間は定義できないし、種は便宜的な概念でしかないし、生存戦略なるものは存在しない。あるのは行動を支配する遺伝子であり、それもまた変異があるので途方も無い自由がある。そもそもだから進化できるし、環境に適応してこれまで存続できたのだ。
人間を定義に当てはめようなど、傲岸不遜、暴力的以前に認識が根本から間違っている。
そして、この争いは古くから起きていることであった。
プラトンは人間をこう定義した。
人間とは二本足の、羽の無い動物である。
しかしある日、哲学者ディオゲネスが羽をむしりとった雄鶏持って、これが人間だー! とプラトンの教室に乱入。
以来、プラトンは、人間とは二本足の平たい爪をした羽のない動物である、と言うようになったという。
*「ギリシア哲学者列伝」中 pp143
∧∧
(‥ )ディオゲネスさんというと
\‐ 樽を家にして
そこを訪れた
アレクサンドロス大王に
欲しいものはないか? と
問われた際
じゃあ
そこをどいてくれませんかな
影になって日向ぼっこが
できませんのでね
そう答えた人ですよね
*注:これは意訳
(‥ )それに関しては色々な
逸話があるが
まあそういうキャラだって
ことだよな
ああ、ひもじさも、腹をこうやってさすれば止むといいのになー、と公衆の面前でペニスをこすりながらオナニーをした人でもある。
∧∧
( ‥)ともあれ、あれだね
人間や物事を定義で
語ろうとする人々に対して
異論を唱えた人でもある
( ‥)2000年以上前から
‐□ この争いは続いているのだ
人間を定義で語る人間と、その定義そのものをおちょくろうとする人間がこの世界にはいる。
そして生物学的に言えば、前者は正しくない。