2014年12月28日日曜日
金を払って持続に協力したのは誰?
∧∧
( ‥)つまり?
( ‥)要するにだな
‐□ 物書きは売り上げで
食べているし
食べているから
本を書けるのだ
そういう意味でいうと、本を書き続けている、というのは物書きとしては成功なのである。
その本が、”どんな内容であれ”、本を書き続けていられるとは、需要があり、求めている人間かいるからに他ならない。
この場合の物書きとは、自称、他称を問わない。本業がなんであるかも問わない。
本を書いたら、なんであれ、全員が物書きだ。
さてここで問題である。
というか問われることがある。
例えば、人は言う
癌は切らずに直る。そういう本を読んだおかげでこんなことになってしまいました。
この叫びは当然。
当然ではあるが、だがしかし、やはり問われてしまうのだ。
物書きが本を書き続けられるとは、それは需要があったからで、それはつまり、購買者が買って、お金を落としたからこそ書き続けられたのだと。
もちろん、客というものは、買った本の内容の是非どころか、内容の妥当性に関してはまったく知るところではない。
消費者は本の内容とその妥当性を正確に判断していない。
∧∧
(‥ )というか、どっちかというと
\‐ お客は不正確なものを
望みますよね
(‥ )現実は辛すぎるからな
皆が本に望むことは
嘘になる
これは必然なのよな
しょうがないよね
だがそれでもなお、これは次のことを示している
判断と決断をしたのは客である
客がいるから”商売”が続けられるのである
だから問われる
癌は切らずに直る、抗ガン剤も必要ない。そういう本が次々に書き続けられて、それによって結果的であるにせよ、次々に犠牲者が出るとしたら、それは一体全体、誰のおかげであろうか?
物書きの責任か?
まあ責任はあろう。
だが、売れなかったら物書きはすぐに消えたはずである。
では誰が、お金を供給したのか?
一体全体、”誰”が、物書きに支払われる金を捻出したのか?
自分の判断によってお金を支払い、次の犠牲者が出るであろう持続性を物書きに与えた張本人。
それは誰だ?
∧∧
(‥ )まあなんだ、直接には
\‐ 編集部の人なんですけどね
(‥ )だが売れないと分かったら
編集はその物書きを
もう使わないわけよ
編集の仕事は極端に言うと仲介なのである。別に無から金が湧いてくるわけではない。
だから問われるのである。
物書きに文句を言うのは当然だけど、だがしかし、物書きに金の供給を許し、次の犠牲者を作る持続性に加担したのは誰だ?
∧∧
(‥ )さりとてそういう言論を
\‐ 封殺せよ
というわけにも
いきませんからね
(‥ )既存でないものは
全部トンデモという
カテゴリーにして
一律に禁止せよ
そんなことをしたら
破滅だからな
犠牲者はいつでも出る。完全な規制はありえず、完全な安全性も存在しない。多少の犠牲は黙殺されるのである。自動車社会が典型的な例である。誰もが死ぬ可能性を秘めているが、それは利便性の前に黙殺されている。
ただし、以上で述べた本の場合、これは麻薬の話に類似した点があるとも言える。ゆえに、問いが出るのは当然であろう。
いつだってそうなのだ。売人は責められるが、責められるのは売人だけではない。本も同じである。