2014年12月30日火曜日
ネットも本も問題の本質ではない 人間の問題だ
ただの情報は、所詮はただだ。
∧∧
(‥ )こう言うと怒り狂う人が
\‐ いるよね
本は編集が入るから
情報の質が高い
そう主張するんだろ? と
(‥ )とはいえだ
そういう側面は
事実としてあるね
目を背けるべきではないな
だが、そんなことどうでも良い話である。
あるいは人は、ネットによって人びとは世界中の知にアクセスすることが出来るようになった、そう主張する。
∧∧
(‥ )まあ事実ではありますね
\‐
(‥ )便利になったしね
だがしかし、これもまたどうでも良い話である。
あるいはこう
Wikipediaは間違いだらけだ。
∧∧
(‥ )事実だね
\‐
(‥ )事実だな
これもどうでも良い
話だけどね
仮にWikipediaの記事が正しくても、結果は同じだ。そんなもの、どうでも良い話である。
∧∧
( ‥)以上の指摘は
全部どうでも良い話だ
(‥ )ネットはな
本の限界を
突破できなかったのだ
ネットは本の限界を突破できなかった。
ネットは世界中の知にアクセスできる? ああ、それは事実だが、それは解決策にはなりえない。
∧∧
(‥ )本を読む人間も
\‐ ネットの可能性を信じる人間も
どっちも人間だ
ここが問題だ
問題は人間が人間であること
ここにある
(‥ )科学の事柄を見れば
分かる事なのだ
科学に興味がある! そう自称する読書人、読書を祭り上げ、ネットを軽蔑する人間たち。
だがしかし、そんな彼らが例えば手にしたのは今西錦司やグールドであった。ようするにトンデモの皆さんである。
つまり、誰も、壁を突破できなかった。
一人として、壁の向こうにある理論、実際のダーウィニズム、現実の科学理論と研究者の世界には手が届かなかった。
これは1ジャンルの細かい話ではない。こういうことが山のようにある。そもそも科学に限った話でもない。どうしても越えられない壁がそこにある。誰もがそこから先へいけないのだ。
そして、本であろうが、ネットであろうが、この壁を突き崩す事はできなかった。
∧∧
(‥ )読書人と自称しながら
\‐ 本屋の同じ棚にある本に
図書館の棚の隣にある本に
まったく手を伸ばさなかった
(‥ )ネットもこの壁を
突き崩すことが
できなかった
当たり前だ。壁なんてものは最初から無かった。少なくとも物理的な壁など無かった。本の時代にもネットの時代にも壁なんて無かったのだ。最初から誰でも、世界中にアクセスできたのである。
壁があるのは人間の内部であった。
人間が人間である限り、本を読もうが、ネットを使いこなそうが、壁は突破出来ない。
人間は理解するために本を手にするわけではない。理解するために検索するわけでもない。
単に自分に都合の良い話を見つけるために本を手に取り、検索を行なう。そうである以上、現実には行き着けない。自分に都合の良いお話を集めて城を作るだけである。
そもそも私たちが普段使う”理解”という言葉は、こうして作った都合の良いお城のことだったりする。
つまり、壁は人間が作り出す。
本を読む人間はこれを突き崩せなかった。むしろ城を作って立てこもるためにこそ、本を読む。それは電子的な検索も同じであった。
ネットは、本の限界を突破できなかった。敗北である。失敗だ。