2014年7月17日木曜日
そこにあるのは多分、永遠の”べき”
hilihiliのhilihili: 助け合いは報復と暴力がなければ成立しえないの続き
∧∧
(‥ )先の元ネタは
\‐ これなんだよね
=>弱者を抹殺する。 不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思い... - Yahoo!知恵袋
(‥ )失礼ながら
なんていうかな...
言及がかなり
混乱的なんだよな
例えばの話、人間が進化の過程で助け合いという性質を持つようになった、というのは事実だろうけども、それが弱者保護、ひいては”生存上不利な遺伝子の保護”という話にまで拡張されているようである。
∧∧
( ‥)でも、実際の話
生存上不利な遺伝子の保護を
しているのは
人間社会ではなくて
メンデル遺伝であると
( ‥)多分なあ
‐□ 人間が手にした
社会性や助け合いと
優生学の否定が
ごちゃまぜになって
いるみたいだよね
過酷な環境で生きる淘汰の過程で他の類人猿よりも助け合いの行動が特化した、というのは多分、事実であるっぽい。チンパンジーがしないことを人類はする。
∧∧
( ‥)社会が身寄りの無い人
収入の道を断たれた人や
子供を助けるのは
その延長だと考えることが
出来るだろう
(‥ )でもそれは
生存上不利な遺伝子を
保全することでは
ないからね
単に人間はその性質に従っておせっかい焼きをしているだけだ、とも言える。そして、生存上不利な遺伝子を保全しているのは、むしろ男女や雌雄という仕組みだ。2つの親が提出した遺伝子を付き合わせることで不利な遺伝子が表面化しないようにしている。
∧∧
(‥ )結果的に大量の変異を
\‐ 蓄えることになる
新しい淘汰圧がかかっても
蓄えがあるから
ただちに対応できる
(‥ )つまりメンデル遺伝と
男女の存在が
それを成し遂げるのだ
それは人類の専売特許
ではなくて
性を持つ生物なら
全部そうだよね
人間の社会性がそういう遺伝の多様性を保持するわけではない。多分、回答者は質問者が漠然と仮定している優生学的な考え、これは”優秀な遺伝子”という言い方から分かることだが、それを否定しようとするあまり、人間の弱者救済とメンデル遺伝による劣性な遺伝子の覆い隠しとを混同してしまったんだろう。
∧∧
(‥ )しばらく前の質疑応答だね
\‐ でもあなたはこのやり取りに
興味を抱いたと
(‥ )質問も回答も
何を言っているのか
最初は理解できなくてな
でも言い換えれば
これこそが
”分かりやすい”
なのかもしれん
∧∧
( ‥)あなたは他人の
考えていることや
大勢の人が言う
”理解”とか
”分かりやすい”が
まるで理解できない
( ‥)だからなあ
‐□ 人間のやり取りを
じっと観察することに
しているんだよね
それにしても思うのだが、人間が種として持っている生存戦略、この言い様は先に述べたように工業製品的な説明である。これもまた理解に関する手がかりになるのだろう。
例えばの話、日本の探検家というか登山家であった今西錦司は、種は一斉に進化する、ダーウィンの進化論は間違いであって、日本には日本独自の生物学や進化論があるはずだ、そう申し述べて今西進化論なるものを提案した。
∧∧
(‥ )当然、トンデモなんだけども
\‐ どういうわけか
日本の文系の人々や
知識人にはこれが
大層受けた
(‥ )まあ、気持ちは
分からんでもないな
白人諸国が”有色人種”なる人々にまっとうな人権なり市民権なりを与えたのはWW2のずっと後のことである。あのような、あるいはこのような暴虐を見れば、白人の考えたものではない自分たちによる自分たちの世界を築こうという発想が出てくるのは当然だ。これは単なる防衛である。
∧∧
( ‥)でもトンデモだ
( ‥)日本独自の進化論とは
‐□ 日本にしか存在しない
物理法則があります
そういう主張をするのと
同じだからね
人間は望みを手にしようとするものだ。しかし望みそのものが妄想でしかないことがある。そんなことは自分たちの人生と挫折を思い起こせばすぐに分かることだが、それでもなお、掴みたいものがあるということだ。
そしてしかしもうひとつ多分、理由があるのだろう。
おそらく、この手の説明を望む人は論理的な人間ではないのか?
∧∧
( ‥)種は実在する
種はこのような特性を持つ
人間が種として持つ
生存戦略は弱者保護である
ゆえに保護である
劣った遺伝子も
保全するべきである
(‥ )トンデモ進化論って
どれもこういう
構図を持っているの
だよな
結論が正反対な
優生学的な理論でも
そうなのだ
均一な大前提から
論理的な結論を得る
ここにあるのは
論理であって
それは”べき”なのだ
もちろん、こんなことは間違いだ。論理的な世界観はたいしたものを生み出さなかった。プラトンやアリストテレスを見ればそれがよく分かる。論理は偉大なる書物と成果であるユークリッドの幾何原論を生み出しはしたが、そこには0もマイナスも虚数もなく二次方程式すら満足に解けない。
∧∧
(‥ )でも論理を掲げる人は
\‐ べきなのだを繰り返す
(‥ )ああ、しかしだな
それだと
どこにも
いけないのだよね
世界の有り様はいい加減で複雑怪奇であって、底が知れない。だから重要な要素だけを抜き出して単純にざっくり考えることが必要だ。
しかし論理は物事を扱うにはあまりにも剛直すぎると言えば良いか。
あるいは、論理は扱う名詞が無駄にでかいので、絶望的に雑になると言えば良いか。
だから論理は挫折する。プラトンの野心と理想が無惨に挫折したように。そして、挫折と絶望から論理主義者は、”べき”をただ繰り返すだけとなるだろう。
だがしかし、それは根本から誤りだ。挫折した時、間違っているのは現実ではない。現実を記述する事に失敗した自分の理論と理解なのだ。自分の理論を防衛して、現実を否定するのは、それはいかがなものだろうか? そもそもそれではどこにもいけない。
∧∧
(‥ )もっといい加減に
\‐ 生きた方が良いと?
(‥ )昔から
そういうものだと
思うけどな
そうある”べき”。言いたい気持ちは分かるが、だがしかし、べきべき言っても、それだけでは現実を否定するだけで、一歩も前に進めないのだ。