2014年5月10日土曜日
楽天的な意味でデカルトを
我思う ゆえに我あり
∧∧
(‥ )すべてが心の錯覚、
\‐ あるいは心がつむいだ
夢や幻覚だとしても
それでもなお
それをつむぐ私の心は
存在するだろう
(‥ )問題はだ、
心が存在するという解釈
それ自体は大前提として
受け入れてもだ
だからといって
心が思索したことが
論理的に正しいという
保証はないんだよな
実際、デカルトは心を作り出す、より高次なものが存在するはずだ、ゆえに神は実在する、と言い出すわけで
∧∧
( ‥)それって、時計を作るには
時計よりも高次の存在
時計職人がいないと駄目だよ
という経験から導いた
例え話じゃないですかね?
( ‥)簡単な原理原則から
‐□ 複雑で秩序的な現象が
出現することを知る
今の僕らには容認できない
発想であるね
つまり
デカルトの論理は
アナロジーを大前提にした
怪し気な演繹なわけだ
というか、
すべてを疑っても、それでもなお、それを疑う心、それ自体は存在する
と主張しても、その心自体が別の現象の影でしかなかったらどうするのか?
∧∧
( ‥)つまり影が所詮は三次元の
物体を投影した二次元でしか
ないように
(‥ )心が心の本体、
例えば脳が
やっていることを
まったく認識していない
あるいは自身に対して
非常に雑な理解しか
していない
そういう可能性だね
そもそも心であれ、脳であれ、その演算の仕組みは、果たして正確な計算を行えるようになっているのだろうか?
∧∧
( ‥)そんな保証はない
( ‥)ないどころか、
‐□ 正確ではなく
自分にとって
一番得になる解を
探索するようになって
いるみたいだよね
獣、鳥、魚、こういうカテゴリーと認識、それ自体はまさにそうだろう。
心のみが確実である、そう言ったところで心が持つカテゴリーや”演算のくせ”、あるいは飛躍的発想、それらに思考自体が拘束される。そのことは、デカルト自身の論証から明らかだろう。
∧∧
(‥ )我思う ゆえに我あり
\‐ 懐疑論だそうですね
(‥ )どっちかというと
楽天的に思えるけども
懐疑という単語の
使用方法が
このような意味では
ないってことかもね