2014年5月6日火曜日
別に再現性がうんぬんの問題じゃないよね
科学において物事を証明するには同じ事を二度起こさないといけない。科学と宗教の違いはそこだ。それゆえに二つは永久に平行線である。
∧∧
(‥ )反復可能性ってやつだね
\‐
(‥ )反復できるものが証明で
それが科学の実証である
キリスト教徒は
イエスが復活したというが
それは再現できないから
科学ではない
科学と宗教はお互いに
相容れない
そういう論拠だな
一見すると、いかにも明瞭に科学と宗教を分けている。
だがしかし、実のところこれは、反復できる現象と出来ない現象を分けただけ、でしかない。
現象を分けただけで、宗教と科学を分けたことではないだろう
∧∧
( ‥)科学の中には再現出来ない
過去について論じるものも
ある
( ‥)だから論が甘いのだ
‐□ というのも
さることながら
実は冒頭の言い様はものすごく不自由な言い方であるとも言える。
キリスト教徒が言う、イエスは復活した、これに対して「それは再現できません」そう言うしかないんだろうか?
∧∧
( ‥)生き返った人間
見た事ないよ
(‥ )まあ、そういうことだ
人の復活を肯定しない(近似的には否定する)。この時に再現うんぬんなんて難しいことを言う必要はないのだ。
もちろん
もちろん、イエスは預言者であるのみならず、文字通り神の子である。そう設定すればこの問題は回避できる。人では不可能だが、神の顕現のひとつである彼にはそれが可能だ、という考えだ。
ただし、これは、キリスト教徒と同じく一神教徒であるユダヤ教徒もイスラーム教徒も首をかしげる解釈でもある
それゆえ、一神教の理論体系としてその解釈はどうよ? という疑義が当然出てくることもさることながら
∧∧
(‥ )というか、そもそも
\‐ 生き返ったという直接証拠は
どこにあるんだ、とかね
(‥ )聖書の記述でも
イエスがむっくり
起き上がった
なんて書いてある
わけじゃないからな
そもそも
イエスの復活って
当時のギリシャ、ローマの
都市伝説や民間伝承の
範疇で説明可能じゃね?
とか
論証には
色々なアプローチが
ありうるのだ
再現性なんて、そんな難しいことを言って論証を放棄する必要は無い。再現できないことも検証可能である。自分の記憶と推理に頼って探し物を見つけたことはないか? これは再現ではない。検証だ。つまり話は簡単。再現できないことでも検証は出来るのだ。
そして、確かに確かに、イエスが復活した、という解釈があるのは事実である
それを信じて命がけで伝道した人々がいたこと、これもまた事実である
∧∧
( ‥)だけども復活という出来事
それそのものがあった
そう解釈する
強い必要性はないだろう
証拠と記録はそれを
支持しない
そういうことだね
(‥ )そしてだ
こういう論証において
再現性がどうのこうの
なんて言う必要は
どこにもないわけさ
再現性が科学であり、宗教はそうではない、そんな中途半端な理屈で論証をずっと手前で放棄するのは、まあ、余計な衝突を起こしたくない知恵ではあると思う。しかし、論としてはいい加減過ぎるだろう。
*追記的な文章
ここまではありきたりな話。
以下は余計な話。
以上までだと科学と宗教は相並立するのみ。そういう結論が出てくるだけだ。しかし、ここからもう一歩、根源にまで踏み込むと宗教と科学の境界線が融解し始める。
∧∧
( ‥)その時、科学は大前提を
信奉する宗教であることを
自ら露呈し
(‥ )宗教は自らの神を
論証できなくなり
自壊するのだ