2013年12月15日日曜日
根幹がファンタジーかと問われれば肯定も否定もできず
∧∧
( ‥)例えばの話
( ‥)論理は矛盾がない、
‐□ というだけで
現実については何も
語っていない。
論理は文法みたいなもんで、文法が正しくても間違いや嘘があるように、現実について何も語れない。
1+1は2でも良かったし、3でも100でも良かった。どの前提でもそこから出発すれば矛盾のない体系を構築できる。
論理は別に現実について語っていない。むしろ現実に服従させられるのが論理だ。自分自身ではなにも出来やしない。
例えば論理的な結論を確かめるには帰納法のような経験が必要だ。だけども経験が万能でないことはすでに誰しも経験済みである。
∧∧
( ‥)そしてデータから結論を
発見するのは
論理でもないし
帰納法でも無理である
(‥ )それはもぎゅっと
結論をもぎ取る
アブダクションなんだが
今度は根拠が不明だ。
最小二乗法 なぜ誤差は全部の平均で良い、と考えたのか?
最節約法 なぜ余計な仮定は最小限にするべきなのか?
距離法 なぜ距離が最小であることが良いのか?
最尤法 なぜ確率的に最大が良いのか?
∧∧
(‥ )全部ただの仮定ではないか?
\‐ 仮定の確からしさは
どこにあるのか?
(‥ )実はどこにもない、
とも言える
経験的には良さげだし
便利なんだが、
便利=正しいでないことは
これまた経験済みだ
らしいけども
正しいとは言い切れない
ならば根拠は霧の彼方だな
∧∧
( ‥)科学の根幹とはすべて
ファンタジーではないのか?
(‥ )仮にそう言われても
肯定もできないし
否定もできないんだとも
言える。
科学の根幹も論理も経験も演繹も帰納法もアブダクションもデータ解析も、その根幹は確認されていないただのファンタジーではないのか?
はい、と肯定すれば、私たちの経験全体が無意味になるが、経験が無意味ってことは、これ自体が怪しい、という以上の肯定、これ自体も根拠が無いのではないか?
肯定の根拠自体が否定されてしまう。これでは肯定できない。
いいえ、と否定すれば、では科学の根幹が盤石なイデアのごとく存在するというその信仰はどこから来たのか? その問いに答えなくてはならなくなる。
これでは否定できない。仮に否定しても無意味だ。そんなものを信じた者はいるが、見た者はいない。否定の根拠はどこにもない。
∧∧
( ‥)以上を踏まえた場合
科学と宗教の違いとは
一体なにか?
(‥ )宗教には確信だけがある。
科学には確信がなく、
せいぜいあるのは
この世界は現実である
どうも自分は存在するらしい
そういう程度の
暗黙裏の了解がある
それだけかもね