2013年6月24日月曜日
網膜が焦点に対応する
枕カバーを洗うのが面倒くさいので、洗濯用のハイターで処理することに。原液で。
∧∧
(‥ )....汚れや黄ばみどころか
□ 真っ白けっけになってるよ?
(‥;)おわーー!!
原液だめか! だめかー!
原稿をかちかち書いているうちに、時間は過ぎて、染料まで落ちて青いカバーが真っ白に。
やっぱ、ポリデントにするべきだったのか
=>hilihiliのhilihili: 落とせ
∧∧
( ‥)でっ? どうよ
( ‥)うん、書けた。
–□ テキストはこれで
一応上がりだな
ふと思う
( ‥)網膜が焦点にきちんと
–□ 対応する
∧∧
( ‥)それがどうかしたの?
(‥ )ほら、よくこういうことを
言う奴がいるじゃんよ
自然選択とはおかしな言い様です。ダーウィンは神の主体性を否定したのに、自然が選択するという主張をしたのです。ですから、これは創造論からの脱却ではありません。自然が主体的に選択と淘汰を行う。つまり自然に意思があることを認めた理論。神を自然に置き換えただけの中途半端な革命です、うんぬん
∧∧
( ‥)ああ、いますね
つまりあれですか、
網膜が焦点に対応する、と
書いたら、そういう人は
網膜に主体性がある、
そういう主張だ!! と
言いがかりをつけてくる
というわけですか。
( ‥)あの人達、雷が鳴っている
–□ と言ったら、
雷神の存在を認めるのか
とか騒ぎ立てるのかな?
主語=主体性と意思がある、という世界観にすんでいるか、さもなければ多分、誰かがある時にいったこと、
自然淘汰は”自然が淘汰する”だから、自然に主体性があるという論法なのだ!
という曲解に飛びついただけなんだろう。
あるいは悪質なクレーマーとかと同じ構造が脳にある。そう見るべきか。