2015年10月16日金曜日
歴史には残らないが資料となろう
民主主義は国民皆兵だ。市民が戦場に立つのは当然の義務。ソクラテスも戦場で戦った。
しかし、国民皆兵が成り立つのは素人が数と勢いで攻め寄せて勝てる場合に限る。戦争がプロのものになると素人総動員の国民皆兵に意味はなくなる。市民はじょじょに権力を失い、民主制は終わる。
そしていまや、戦争は再びプロのものに回帰しつつある。
∧∧
(‥ )それを考えると
\‐ 安保反対
僕らは戦場へいきたくない!
そう叫びながら
民主的にデモをするのは
なんともチグハグ...ですか
(‥ )安保反対デモも
それどころか
安保法案も
それを通した安倍っちも
歴史には
残らないだろうけど
あのデモの記録は
残すべきだろうなあ
当時、日本人は時代がすでに変わってしまったことを、まだまったく理解していなかった。それが分かる資料となろう。
∧∧
(‥ )そして理解していない
\‐ にも関わらず
変革へと舵を切った...と
(‥ )民主主義は個体が
演算素子になって
集団で
知能抜きで演算する
仕組みだろ?
理解も自覚も把握も知性も
何も無いのに
動けるって
証拠でもあるよね
*多数決は民主主義ではない! と言うように、あるいは自分が考えた結論に沿わない投票を衆愚制、ポピュリズムと批判するように、インテリや文化人は民主主義を忌み嫌う。それはこれが原因なんだろう。民主主義は頭も脳も無い。それにも関わらず手探りでいつの間にか解答へ這い寄っていく仕組みだ。這い寄りうごめくその有り様に、知性を信仰する文化人たちが嫌悪感を抱くのは当然だろう。頭の良い人間にとって、民主主義とは知性への冒涜である。