2015年9月27日日曜日
味見は論理ではない
∧∧
(‥ )論理人間は不幸面
\‐ そう言うと怒る人も
いるんだろうね
(‥ )怒るのは
身に覚えがあるのか?
それとも
論理という言葉の
使い方がずさんなのか?
どっちだろうな
例えばこう考える。
今の若いものは駄目だ。ニュースを見れば若者の凶悪犯罪が多発していることが分かる。若者の精神を厳しく鍛えなければいけない!
若者の犯罪が増えているって統計的な証拠はどこにあるんです?
そういう理屈ばかりこねるから駄目なんだ!
さて、以上のやり取りにおいて理屈っぽいのはどちらか
∧∧
( ‥)若者の犯罪が多発していると
断じている人が
理屈っぽい人でしょうね
(‥ )反対に統計的な証拠を
求める人は理屈を
あまり重視しない人で
あるなあ
一見すると逆のように思う人もいようが、例えばこう考えるとどう?
三角形の内角の和が180度だそうですが、それを支持する統計的な証拠はどこにあります?
こんなことを問うだろうか?
もちろん問わない。このように問うことは論理でもない。かように、証明は論理ではあるが、論理は統計的な証拠を必要としないものである。言い換えれば、統計は論理とは言えない。
∧∧
(‥ )統計ってこの意味において
\‐ 論理ではないんだよね
(‥ )数学ではあるのだがな
だけども
これが論理かと言われたら
違うよねえ
実際、自らを論理的科学的と自称したマルクス主義者たちは、統計学を忌み嫌った。論理であれば○か×か、0か1かのはずなのに、統計学ときたら、何パーセントぐらいだよ〜とかいい加減な値を言い出すのである。少なくとも、論理主義者からすればいい加減で許しがたいものなのだ。
∧∧
(‥ )でも確からしさとは
\‐ 実はこういうものである
(‥ )つまり確からしさは
論理じゃないのだ
当たり前だよね
演繹じゃないんだから
この橋は絶対に壊れません。なぜならマルクス主義的に作られているからです。マルクス主義は正しい、ゆえにマルクス主義的であるこの橋は絶対に壊れません。
そう言われた時、
そうなんだ、ところでこの橋の強度ってどのぐらいなの?
こう尋ねることは論理ではない。ただの確認だ。確認することを論理とは呼ばない。
∧∧
( ‥)だから
”若者の犯罪発生率が
上がっていると
あなたはおっしゃるが
そんな統計が
どこにあるのか?”
こう尋ねることは
論理でもなんでもない
ただの確認である
(‥ )これを理屈っぽいと
呼ぶようではいかんよな
それでは
味見をして料理の出来を
確かめることを
理屈っぽいと
言っているのと同じだよ
つまり、理屈っぽい人間とは、根拠を問う人のことではない。
根拠も無いのに若者の犯罪が増加していると思い込む人、こちらの方をこそ、理屈っぽい人間と呼ぶべきなのだ。
事実、次のように考えてみよう。
論理は大前提が内部に抱えている結論を導く。
若者の犯罪が増えていると思っている人間は、だからこそ若者の精神を鍛えないといけない、そう結論する。
これはまぎれもなく、偏見の大前提から新しい偏見を導いた事例である。明らかに思考が論理的だ。
そしてかように論理とは、偏見と思い込みがあらかじめ含んでいたものを出してくるだけなのである。
これこそが、論理と論理人間の正体である。
しかしそんな彼らは自分たちが論理的に思考していることをまったく自覚していない。
そして彼らは、若者の犯罪が増えたという根拠はどこにあるのか? と問う人を理屈っぽいと否定して逃げるのである。
論理的な人間とは、他人を理屈っぽいと否定するくせに、自分自身は自分の論理のレールから外れようとはしない。
あるいは、他人の意見を理屈っぽいと言って話を聞かぬ人間、彼らこそが、実は一切の妥協を許さぬ論理人間だと言うべきか。
ところで
∧∧
(‥ )そういえば世の中には
\‐ まずい飯を作る人が
いるけども
そういう人は味見をしないし
人の意見を聞かないそうですね
(‥ )考えてみれば
そういう人って
論理的なんだろうな
この作り方で良いのだ、その思い込みを大前提として、そこから論理的に導けば、自分に都合の良い結論ばかり出てくるだろう。
当然、人の意見は聞かないし、味見もしないだろう。なんと言っても拝聴も味見も論理ではないのだから。