2014年12月12日金曜日
ギリシャ哲学は現在の中学以下なので逃避先になる
科学は異なる事例の背後にある共通点を探す。
共通点や法則性をいわば公式として考え、それを利用しあるいは公式そのものが正しいのかどうかを検討する。
だが、文化人とか知識人はそうは考えないようだ。
∧∧
(‥ )幻覚と知覚は
\‐ どちらも神経の処理で生じる
感覚である以上
同じものである
(‥ )こういうことをドヤ顔で
言う人は多いけども
色々と
突っ込みどころが
あるのよな
例えば、
幻覚で見た橋を渡ることは、通常の知覚で見た橋を渡ることと等価か?
答えは、違う、である
共通点があれば二つのものは無条件に同じであると言って良いか? 新鮮なリンゴと腐ったリンゴはリンゴという共通点がある以上、等価であると言って良いか?
答えは無論、違う、である
∧∧
(‥ )実際には等価ではない
\‐ だけど
さも等価であるかのように
語る人は多い
(‥ )こういうのは
意外と知識のある人間に
多いな
というか知識人の歴史とは
こういうたわいもない
詭弁の歴史であったとも
言えような
実際、科学はたくさんの人を殺したのだからウンヌン、というのもそうだろう。あれは
殺すような学問は勉強しなくてもいいですよね、だって頭使いたくないし
そういう主張なのだとも言えよう。
あるいは、ギリシャ哲学は素晴らしい! とか言ってる連中もそうなのだろう。
∧∧
(‥ )ギリシャ哲学から考えて
\‐ 進化なんかありえない
そう熱心に言い立てて
あきれられていた人が
いたよね
哲学者の人にも
お前いい加減な知識で
ふざけるなと
言われてたし
(‥ )そりゃあギリシャ哲学じゃ
なにもできやしないよ
運動を扱えないし
分度器も作れないし
天体観測もできないし
星占いの役に立つ事すら
できない
原始的な体系だからな
未熟なんだよねえ
ポリス時代のギリシャ哲学ときたら、二次方程式が不完全にしか解けないレベルなのだ。ギリシャ哲学がうんぬんなんて、なんのこっちゃない、僕ちゃん、中学以下だし、それでやっていきます宣言に他ならない。
言い換えれば、中学の授業についていけない程度の落ちこぼれ向きの知識体系がギリシャ哲学なんだとも言える。考えてみれば当たり前だ。2000年以上も前の知識と理解の体系である。それ以後の進歩は圧倒的だったのだ。その成果を踏まえた義務教育をなめちゃいけない。
∧∧
( ‥)共通性を探るという点は
科学も詭弁も共通だけど
何を共通点とするか
そこに違いがある
( ‥)科学は場にもっとも
‐□ 影響を与える共通性を
探ろうとする
だがしかし
詭弁は共通点を使う事で
自分の主張を論理的にする
そう見るべきかもしれん
あるいは、恣意的に共通点を上げることで分類や言葉を恣意的に調整し、自分の主張に都合良く世界を解釈してねじ曲げる。それが知識人の思考だとも言えようか。
あるいはこうも言える。
詭弁とは、二つの名詞の共通点を上げて、他を無視して等価とみなし、自分の都合良く世界をねじ曲げることだ、とも言えよう。
考えてみれば知識人とか文化人とか、あるいは読書をたしなむ人間というのはそういうものであったのかもしれない。
いや、そうするためにこそ、知識をかき集めてきたのだとも言える。
都合の良い知識を集め、都合良く分類をでっち上げ、そうして恣意的な基礎を用いて論理的な理解と文脈を作り出した。こうやって彼らは面倒くさい現実の検証を放棄するのだ。
∧∧
( ‥)ではなにゆえに
そんなことをするのか?
(‥ )楽だからだろ?