2014年3月18日火曜日
理解は理解それ自体を破壊するように振る舞う
使命感が義務に燃える心であり、これには価値がある! と確信する行動であるならば
∧∧
(‥ )使命感とは拘泥する
\‐ 能力でしかないのかも
知れない
(‥ )だがしかし、
確信と思い込みは
個別の状況に対応できない
絵本と巻物と漫画がそれぞれの異なる方法論を持っているように、個別の状況は、その状況が持っている個別の文脈に沿って解釈しなければならない。
そうである以上、使命感は個別の状況に対応できず、自分の思い込みという枠に状況を無理矢理押し込んで、状況それ自体を壊すように振る舞うだろう。
∧∧
( ‥)つまり使命感を持つ人間は
使命感を持つが故に
その使命を果たすことが
できない
( ‥)皮肉だが当然だな
‐□
ああ、だから今なら分かるぞ。なぜ子供時代に本の読み聞かせをしようとやってくる大人たちが、どういうわけか読んでいる本を彼ら自身が理解できておらず、どいつもこいつも丸出しの馬鹿であった、それがなぜなのか?
∧∧
( ‥)それは使命感を持つがゆえの
必然
( ‥)理解とは自分の文脈に
‐□ 物事を押し込めることだ
理解、それ自体が理解を破壊してしまう。
それを阻止するには、その本が持つ理解の枠組み、それ自体を把握せねばならん。
∧∧
(‥ )それでもなお、
\‐ ”この本はこのような文脈で
理解するべきだろう”
その判断自体がまた自分自身の
理解の枠組みに押し込むこと
なんだけどね
(‥ )それでもなお、
直に入れるよりは
ずっとましだぞ
なんといっても、この本が必要としている理解の枠組みとはこうではないか? と考える。それは自身の枠組みを変形し、本に合わせようとしているのであるから。
∧∧
( ‥)そうである限り、
破壊と変形は軽減されるだろう
( ‥)そして懐疑的な意見こそが
‐□ これを可能ならしめるのだ
使命感とか、私がやっていることは素晴らしいとか、そういう根拠不明な確信を信奉する奴ら、そういう根拠不明な確信に対して、無条件に拘泥する神経を持つ連中にこんなことはできまい。
これはhilihiliのhilihili: 子供の延長である以上、大人は愚かで劣った存在でしかないの続き