2013年12月15日日曜日
分かりやすい話を信用するには条件が多すぎる
頭の良い人は分かりやすく説明してくれる。
∧∧
(‥ )だから、
\‐ 私が分からない説明をする
あの人は、頭が悪い
だからあんな人の言うことを
信用する必要はない
(‥ )まあ、理屈は通っているよな
とはいえ、実際にはこの主張、省略されすぎていて、このまま額面通り受け取るには、考慮しなければならないことが多すぎる。
∧∧
( ‥)例えば、今ここにいる人は
頭の良い人で、
正直に分かりやすく、
悪意を持たずに
説明してくれている、
という前提付きでないと
以上の話は成り立たない
(‥ )つまり以上だけでは、
頭の回る詐欺師が
頭の鈍いカモを発見して
舌なめずりしながら
受け入れやすい嘘で
騙そうとしている、
という可能性を
排除しきれないのだ
分かりやすい話をしてくれる、という事柄には他にも色々な可能性がある。
例えばみんなが勘違いしやすい勘違いを簡略に話している勘違いさん、という可能性。
実のところ多分、これが一番多い。
とはいえ、ここでは論じない。
∧∧
( ‥)いずれにせよ
( ‥)まっ、冒頭のようなことを
‐□ 無邪気に断言口調で
言ってしまう人は
眼を付けられる可能性が
あるよね
分かりやすい話が、同時に正しくもあるには条件が幾つも必要になる。しかし、分かりやすい、これ自体は正しいを保証してはくれない。分かったは多くを保証してくれそうだが、実際には何一つとして保証してなどいない。当然、分かりやすい、だけで満足すると勘違いや詐欺の侵入を容易に許す。分かりやすいはあまりにも危険だ。